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1961年、中央情報部が生まれたのは、韓国の国家情報機関の歴史において、大きく2つの意味を有する。第1の意味は、中央情報部の出帆により、戦略的次元の国家情報機関が初めて生まれた点である。45年8月の光復後、中央情報部が創設される時まで、軍と警察を中心に運営されてきた情報機関は、戦術的又は部門情報機関の水準を抜け出せなかった。それに比べて、名称から権限に至るまで、米中央情報局(CIA)をモデルにした中央情報部(KCIA)は、名実共に国家情報機関の形態を帯びた。
もう1つの意味は、海外情報収集機能を備えた中央情報部の出帆により、初めて海外情報に対して、体系的に接近することができた点である。その時まで、海外情報(対北情報を含む。)に対する経験は、軍が戦術的必要性により、情報を運営したのが全部だった。対北戦術諜報組織だった諜報部隊(HID)と特務隊、そして憲兵隊程度が精々だった。中央情報部創設に最も大きな影響力を与えたのは、そのモデルであるCIAだった。たとえ、規模は比較できないが、特に組織と機構編制面において、中央情報部は、先進情報機関であるCIAのモデルを踏襲した。問題は、ハードウェアは模倣できるが、ソフトウェアは模倣できないことだった。そのような点において、中情創設により大きな影響を与え、影響力がその後も長い間継続したのは、軍の情報経験と日本式諜報収集と工作に対する理解だった。即ち、ハードウェア(組織)は、米国式だったが、それを運用するソフトウェア(人力)は、日本時代、軍と警察で経験を伝授された軍と警察の人間、即ち、日本式だった。そして、これはやはり、日本軍将校出身で、情報の最終使用者となった朴正煕大統領の情報に対する理解に決定的影響を及ぼした。要するに、「服」だけ米製(新式)で、人は日製(旧式)だったのである。次は、安企部次長を担当したL氏の証言である。
「情報に対する日本式理解は、満州事変における日本軍、特に憲兵将校の役割に起源を求めることができる。彼らの基本任務は、造作と工作だった。即ち、現代的意味のCA(Covert
Action)だった。それ故、中情の初期の運営も、陰謀的な視角で流れる外なかった。例をとれば、中情が創設された後、70年代中盤まで、対北情報を含む海外情報を担当した者は、日本軍憲兵出身の李チョルフィ次長だった。中央情報部時代、彼の情報観は、日本式情報概念の代表的な事例と数えられる。朴正煕大統領の情報観にも、最も大きな影響を与えたと伝えられる。即ち、情勢を造作し、このために政治問題を作っていくことが主任務だった」。
このように、西欧式情報官が不在の状況において、政治安定が最優先目標となる時代的状況のために、中央情報部の初期機能は、情報機関本然の道から歪曲される外なかった。国内保安・情報分野より、比較的政治的な影響を余り受けなかった海外情報分野でも、体制反対勢力を監視することが主任務となってしまった位、誤っていたのである。
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最終更新日:2003/05/21